音信不通でもご縁があれば必ず再会する、というスピリチュアル的な話

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2001年にワーキングホリデーでオーストラリア・シドニーに到着して、シドニー北部のCollaroyとい海の近くの街で1か月だけホームステイをしていました。

 

その時にホームステイ先で、T子ちゃんという日本人女性と知り合い、私より少し先にシドニーに到着していた彼女からいろいろなことを教えてもらいました。私が現在、シドニーで暮らしていられるのもオーストラリアでできた一番最初の友達がT子ちゃんだったからで、彼女にはどれだけ感謝しても足りない。

 

私は何の情報収集もしないで、「1年くらい海外にいってみるか」、そんな軽いノリで場当たり的にでシドニーに到着してしまいました。

 

シドニーのことを何にもしらない私にT子ちゃんは、「これ、日本語のフリーペーパーだよ」とワーホリ向けのチアーズという無料情報誌を渡してくれたのを今でもよく覚えています。そんな16年前のこと、彼女はとっくに忘れてしまっているのだろうけど。

 

そうやって、いろんなことで助けてもらっていたけど、ホームステイ期間が終わってからはお互い別々の道を歩んでいき、だんだん連絡を取らなくなりました。

 

気が付けばT子ちゃんとの付き合いは10年ほどまったくなくなってしまったのですが、今思えばお互いに自分自身の人生を切り開くべく必死だった10年だったのだと思います。



音信不通の10年間を打ち破る1通のメール


「ここ(シドニー)での生活もなんとか落ち着いてきたかな」と思えた在住10年目を超えたある日、何気なくメールをチェックしたらT子ちゃんからのメールが来ていました。

 

約10年年振りのメールなのに、

「あ、T子ちゃんからだ」と全く驚くこともなく、普段からメールのやり取りをしている友達から返信がきたような感じ。久しぶりなのに、久しぶりな感じがしないなんておもしろいな、なんて思いました。

 

彼女からのメールの内容は、

「ホームステイ先のお父さんの名前なんだっけ?思い出せないんだけど」みたいなもので、たいした近況報告もないまま質問をぶつけてくるのも、「なんかいいな」と思いながら、速攻返信。

 

「覚えてないよ」

お世話になったステイ先のお父さんの名前をお互い覚えてないのもなんだか私たちらしいじゃないか。

 

そして、数回のメールのやりとりでT子ちゃんは東京で働いていること、私はシドニーの幼稚園で働いていること、もうすぐ一時帰国することをお互い伝え、

 

「じゃ、会おうか」ということになりました。

 

連絡を取り合わなかった10年。今の時代ならSNSでいくらも近況は知ることができるのだろうけど、私もT子ちゃんもあまり熱心にSNSをすることはありませんでした。

 

T子ちゃんがいなくてもシドニーで暮らし続けることはできた。その間に資格も取ったし、仕事も見つけたし、好きな人もできたし、もうチアーズがなくても大丈夫なほど生活に不安はなかった。

 

私なりに「人並みにオーストラリアで暮らす基盤」を作ってきた、そのご褒美に神様がT子ちゃんとの再会をお膳立てしてくれたんじゃないか、、、と思わずにいられませんでした。

「縁があれば再会する」は本当

そして今から5年前、私とT子ちゃんとは東京で10年ぶりの再会を果たしました。

 

本当不思議なんだけど、「久しぶりなのに久しぶりじゃない感覚」で、長い間、会っていなかったのについこの前までオーストラリアで一緒に過ごしてたんじゃないか、って思えるほど、私たちは何にも変わっていませんでした。

 

彼女の話すことはつくづく共感できるし、生き方も素敵だと思ったし、見た目もぜんぜん変わってないのもすごいなと思った。

 

私は人と会うために外出しても、「早くおうちに帰りたいな」といつも思ってしまうのですが、T子ちゃんとはいつまででもしゃべっていられて、1ミリも無理しなくていい、自分をとりつくろわなくていい友達なんだと感じました。

 

そういう風に感じることができる友達や恋人とは「ご縁」がある。同じ感覚を持って気楽に過ごせる人との繋がりは一見切れたように見せかけて、どこか深いところで強くつながっているのだと思います。

久々の再会のあと、また連絡を取らない日々が何年か続きました。

 

どちらかが、またはお互いが何かに夢中になっていたり、越えなければならない壁にぶち当たってもがいている時、私たちはどちらからともなく音信不通になってしまう、そんな関係なのでしょう。

 

友情でも恋愛でも、その人間関係に執着しないで流れに任せることが大切で、お互いの「魂のレベル」みたいなものが、ぴったり合致したときに素敵な再会が待っています。

 

どんなに時間がかかっても、どんなに遠く離れて暮らしていても、「ご縁」があれば必ず再会します。距離や時間なんて関係なくて、ベストタイミングで再会の時が来るから、それまでは自分が成長するための時間。

 

自分にとって、相手にとってご縁であれば、頑張らなくてもまためぐり合うようになっているんで、相手に連絡したり、連絡を待ったりしなくていいんです。

羽田空港で再会

先月、日本でT子ちゃんと再会。

 

私が一時帰国からシドニーに戻る日、羽田空港で待ち合わせをし、フライト前に一緒にご飯を食べました。

 

「東京で遊ぼう」ではなく、「羽田空港で会う?」とこちらに時間的・金銭的負担をかけない誘い方も彼女の人柄がなせる技。

 

このまま飛行機に乗らないで、蒲田あたりの安ホテルに2人で泊まって夜通ししゃべり倒したい衝動にかられましたが、出国審査の入り口の前でT子ちゃんに別れを告げて、この記事はシドニーで書いています。

 

けっこう長く働いた職場を辞めて「海外で無職生活」という大きな決断をした直後、T子ちゃんとのメールのやりとりが復活した。

 

このタイミングで彼女に再会できるように、神様やそれに似た何か大きな力が働いていたんだ、と狭いエコノミーシートに座りながら考えました。

 

久しぶりに合ったT子ちゃんは相変わらずかわいくて、話もおもしろくて、「無職生活」を選らんだ私を非難するどころかポジティブに受け入れてくれて、「日本中で私のことをここまで理解してくれるのはT子ちゃんくらいだな」と思って、勝手に「わかってくれる人ランキングin Japan」の1位を授与。

 

(ちなみに、「わかってくれる人ランキングin Australia」も、その昔シドニーとニュージーランドで国をまたいでの距離ができてしまったけど、強いご縁でまた繋がった親友)

 

この時、私たちはLINEの交換をして、以前より連絡は簡単になったはずなのに、LINEのやり取りもなく日常は淡々と過ぎていきます。

まとめ

その時の状況や立場によって人の考え方は変わっていきます。その変化の中で、疎遠になってしまう人間関係も多かれ少なかれありますよね。

 

私もT子ちゃんはLINEやFacebookをしていなかったし、メールのやり取りもほとんどなかった10年間は、「疎遠」そのものでした。

 

でも、本当にご縁のある人との繋がりは「いつも仲良し」じゃなくてもいいんです。

 

頑張ったり、無理したり、心配しながらの疲れる人間関係はもともとご縁のなかったものとして、執着するだけ時間の無駄です。