昼間、リビングのソファでグータラしていたら、同居人・タムタム(マレーシア人)が、
と、体をクネクネさせ、へらへらと笑顔を浮かべ、手を叩きながら、謎の歌をうたいながら現れました。
よく聞いてみると、こんな歌詞が、、、、
それって、、、、、小沢健二の「ラブリー」じゃんか。
と、年の瀬も迫る12月某日、我が家では国際紛争が起こる一歩手前でした。
若い読者さんたちは「小沢健二」「オザケン」と聞いても、「なぜこんなおじさんが王子様なの?」と思うかもしれません。
しかし、私にとっては20年以上前から王子様であり、彼のひょうひょうと生きる姿や、育ちの良さそうな雰囲気(実際、育ちはすっごくいいんだけど)、彼の作る幸福感あふれる音楽や深読みしたくなる歌詞、そしてラブリーな一重まぶたに今でもときめいています。
「小沢健二は才能あふれる王子様」をわかってくれる人が周りにいないので(周囲に日本人がいない)、今日は私のオザケン愛をここで語りたいと思います。
もくじ
フリッパーズ・ギター「恋とマシンガン」の衝撃
小沢健二が小山田圭吾と組んでいたデュオ「フリッパーズギター」の代表曲「恋とマシンガン」が彼との出会いでした。
当時(1990年)、田舎の高校生だった私は初めて「恋とマシンガン」をきいたときに洋楽のようなおしゃれな雰囲気に圧倒され、何度も何度も繰り返しきいて彼らの独自の世界観にひたっていました。
2人とも見た目は日本人なのに、作っている音楽や歌っている姿は外国人ぽくて、不思議なオーラを放つアーティストだな、と。
そして、フリッパーズギターは「渋谷系」と呼ばれるミュージックジャンルの代表格となりましたが、彼らはどこにも分類わけはでず、「フリッパーズギター」は「フリッパーズギター」という枠なのです。彼らだけの独自な世界はどこにも属することはできません。
間もなく彼らは解散。
こんな個性のかたまりのような2人がいつまでもツルんでいられるはずもないんです。解散は自然な流れだったと思います。
渡辺満理奈を取り合ってケンカ別れした、なんてものも解散理由として噂されましたが、そんなことコアなファンにとってはどーでもいいんです。
そして1993年ソロ活動開始・アルバム「LIFE」で人気爆発
20代、「LIFE」を聴いて過ごし、40代になった今でもしょっちゅう聴いているので、小沢健二の楽曲に対して「懐かしさ」というものはないんですよね。家ではCDやYoutubeで、外出時はウォークマンで、ずーっとLIFEを聴き続けてきました。
アルバム収録曲「今夜はブギーバック」は様々なアーティストにカバーされ、今でもその人気がうかがえます。小沢健二はHipHopを世間に浸透させた一人者。
40代の男友達とカラオケに行くと、「今夜はブギーバック」を熱唱します。(友達がスチャダラパー担当、私オザケン担当)
このアルバムは小沢健二の代表曲「愛し愛されて生きるのさ」「ラブリー」「ドアをノックするのは誰だ?」などが収録されており、全編通じて幸せに満ちています。
彼の綴る言葉には具体的なメッセージが込められているわけではありませんが、聴き始めた時と聴き終わった時、確実にポジティブな方向へ感情や気持ちの変化があります。
たとえば、天気の良い土曜日の午前10時、お腹すいたからブランチの用意でもしよう、というシチュエーション。
濃いコーヒーを淹れながら、オレンジを切っているときに、小沢健二の音楽がBGMだったら、なんてことない日常が「満ちたりた幸福な日常」に早変わりするのです。
シングルを6作連続リリースした1995年、その時日本に何が起きたか?
小沢健二はまぎれもない天才です。それは東大卒という学歴でもなく、叔父に指揮者の小澤征爾がいるからでもなく、幼少期にドイツで過ごしたわけでもなく、「世間が何を求めているか」を敏感に感じ取る天性の才能です。
1995年1月「阪神・淡路大地震」、3月「地下鉄サリン事件」が起き、日本は悲しみのどん底へ転落しました。
そんな時、小沢健二はとびきり明るい能天気な楽曲を次から次へとリリースしたのです。同年2月にリリースされた「強い気持ち・強い愛」の中では、
強い気持ち、強い愛 心をギュッとつなぐ
いくつもの悲しみも残らず捧げあう
長い階段をのぼり 生きる日々が続く
(引用:「強い気持ち 強い愛」作詞:小沢健二)
と歌っています。
作曲者である筒美京平のとびきり明るい曲調に深い歌詞と小沢健二の軽快な歌声がマッチしていて、人々を温かい気持ちにしてくれる楽曲です。
そして、同年12月「痛快ウキウキ通り」という能天気なタイトルの曲をリリースしました。
この曲も跳ねるようなリズムにのせて、「プラダの靴が欲しいという彼女の願いを叶えたい」というわりとどうでもいい歌詞から同曲ははじまります。
しかしサビの部分で、
喜びを他の誰かとわかりあう
それだけがこの世の中を熱くする
(引用:「痛快ウキウキ通り」作詞:小沢健二)
と、オザケンらしからぬ熱いメッセージをぶっこんでくるのです。
1995年、悲しみ・不安・憤り、苦悩、あきらめ、言葉にできない様々な感情がからみあって、「とてもじゃないけど前を向けない」という状態だった人々に対して、小沢健二は「底抜けに明るい曲」を連続で届けました。
そこに彼なりの「意思」や「意図」があったのでは?と勘ぐってしまうのは深読みのしすぎでしょうか。賢い小沢健二のことだから、「笑顔で不謹慎なほど底抜けに明るい歌をうたう」という役割を買ってでたのでは?と思うのですよ。
王子は日本が息苦しくなったのか?1998年活動休止、NYへ移住
1997年リリースの「ある光」を改めて聴くと、精神的にギリギリのところにいたのかな、、、、、という印象を持ってしまいます。
曲調はオザケンらしい明るくポップな感じなんですけど、その歌詞の内容が、「敷かれたレールを進むのはもういやだ」「周囲の人間関係がわずらわしい」「もうどこかに行ってしまいたい」というイメージが見え隠れするんです。
この線路を降りたら
虹を架けるような誰かが僕を待つのか?
今そんなことばかり考えてる
なぐさめてしまわずに
(引用:「ある光」作詞:小沢健二)
「線路をおりたら」という部分が「日本を離れて海外移住」とも「自ら命を絶つ」ともとらえることができますよね。凡人にはわからない悩みや葛藤があったのかな、と切ない気持ちになります。
そして現在、小沢健二はアメリカ人の奥さんと2人の子どもと暮らしています。
きっと今は幸せなんだろうな。本当によかった。
小沢健二の魅力は音楽だけじゃない。一重フェチにはたまらない顔立ち!
小沢健二が作る音楽は素晴らしい。それは周知の事実です。
しかし、彼がこれほどまでに女性ファンを獲得した理由は彼の外見にも理由があると思うんですよね。
私の場合、小沢健二との出会いは高校生の多感な時で、彼に夢中になったあまり、理想のタイプががっちり固定されてしまいました。
- 一重まぶた
- 痩せ形
- 顔が小さい
この3つの条件はゆずれません。
あの一重まぶたがいいんですよ。その昔Mixiが全盛期だったころ、「一重まぶた好き集まれ」みたいなコミュニティにもはいってました。
かわいい顔立ちで生意気に軽口をたたく20代中盤の小沢健二なんて、もうどストライクです。
長いことオーストラリアに住んでいるんですが、「一重まぶた」以外の男性を恋愛対象として見ることができなくて、オーストラリア人男性や欧米人男性に恋心を抱いたことは一度としてありません。
一重じゃなきゃダメなんです。
太ってるなんて論外。
顔がデカいのも勘弁してほしい。
、、、という自分のことを棚に上げまくった理想ができあがったのは小沢健二のせいなんですよ。
まとめ
というわけで、まだまだ話足りないのですが、キリがないのでいったんここで区切っておきます。(アクセスがあれば続編書きます)
私の弟とその嫁もオザケンファンで、彼らの結婚式のBGMは小沢健二だらけで出席した私もテンションあがりました。ライブにも行ってて、うらやましくてしかたがありません。
彼が歌えば「神様」は身近に感じるし、「東京タワー」がとても魅力的な何かに変わる。そんな小沢健二ワールドを夜な夜な南半球で楽しんでいます。